見えない自分

自分というのは見えているようで見えていなくて、でもやっぱり見えているところもあって、よく分からない。

僕は自分では明るく気さくに振舞っているつもりなんだけど、疲れているときはそれがうまくできないし、できているつもりの時でも人には思っているのと違った印象を与えているのかもしれない。

最近何人かの学生と話をしていたら、そうなっている気がしてきた。でも、その何人かの学生というのも僕が関わった一部の人間に過ぎなくてそれぞれ偏りがあるから、彼女らの言うこと(あるいは言わないこと)が一般なのかはやっぱり分からない。そもそも僕が読み取り間違えているのかもしれない。

色々考えると、やっぱり少数の信用できる人とだけ深く接して、後は差し支えない関係で済ませたい。

 

 

僕は、メンタルは普通くらいで、少し内向的かつ自堕落、中々協調性がなく、ちょっとだけ好奇心が強め、そんな感じ。

変わらない

人に好かれる人が、羨ましかった。

ぼくも誰かと仲良くなりたくて、友情を向けようとしたこともあったけど、その対象だった人たちは大抵いつも別の人のところに行った。ぼくではダメらしかった。その気持ちは分からなくもなかったけど、悲しかった。ぼくだけを無条件に大事にしてくれる人が欲しかった。
 
そんな人はいなかったから、ぼくは空想の中にトモダチを育てた。彼らだけはぼくを裏切らないから、ぼくはどんどん彼らに依存していった。
 
彼らが本当にそばにいて欲しかった。時々現れた現実の友達に、トモダチを当てはめることもあったけど、でも彼らはトモダチではなかったから、ぼくを一番にしてくれはしなかった。
 
裏切られた気がして背を向けた。お酒を飲んで感傷的な気持ちになっている間は救われている気がした。
 
 
その頃と大して変わってないんだな。

どうせ人は裏切るんだから

弱気になってくると、自分は誰にとっても重要な存在ではないんだろうなあとか思う。

そもそも自分自身が誰かをとても大事にしているわけではないし、心の拠り所は決して裏切らない空想の中の人にしてたくらいだから、当然といえば当然だと思う(今は例外もあるが)。

ただ、珍しく心を開いたような人が、自分より他の誰かを重要に扱っている感じを受け取ると、なんだか裏切られたと言いたいような悲しい気持ちになる。

 

そんな相手自分も大事にするもんかと思ったりもするけれど、そもそも中途半端にしかそうしてなかったんだから。

5年先のことを考える

一人で落ち着ける時間があるので、この先どう生きていきたいかについて考えてみた。この問いのままでは余りにも漠然としていて中々イメージ湧かないけれど、「5年後どうなりたいか」という問題に置き換えてみたら、意外と思い浮かぶものがあった。

全然今と違うかもしれないけど、僕はいきいきと生きたい。自分の頭で考えて、自分の力で自分の人生を切り開いて行きたい。

全然思っていたのと違う答えが出てきて、やや驚いた。でも、前から知っていたはずのことじゃないか。どうして忘れていたんだろう。

 

よかった。多分持ち直せるような気がする。

 

 

きみの友だち

僕は締め切りが近づくとそのやる気の大半を失う性質を持っているんだけど、大学院の博士論文提出の時もそうで、その数ヶ月前くらいから引き籠りがちになった。その中でなんとか生きる意味を、頑張る意味を見つけたかったけれど、それは現実逃避の言い訳と入り混じっていて、碌にうまく働かなかった。

ずっと家にいて、酒飲みながらインターネットしたりして時間を過ごしてた。お酒を飲むと感情面で活性化されるようで、些細な事にも心動かされた。以前書いたことのある「トモダチ病」が激しくて、架空の人たちのことばかりを考えていた。そういえば、その前から僕は大事な発表の時とかはいつもトモダチの名前を唱える事で心を奮い立たせようとしてたもんだった。

ドラえもんの映画を通して見て、なんども泣いたりした。お酒の力。何度もドラえもんみたいな友だちがいればなあと願った。道具なんていらないよ。ただどんな時も自分を見守ってくれる友達がいたらどんなに幸せか。それさえあれば、それを支えにどんな辛い現実だって乗り越えて生きていけるのに。友達を失った喪失感みたいなものに若干酔いしれてみたりもした。そんなのそもそもいなかったのにね。でも、「取り戻したい」気持ちは本当だった。

それも、トモダチ幻想を抜け出してからあまり興味なくなった。

少し時間が経つだけでいろんなことが変わるんだ。

 

 

カテゴリーは「自分のこと」ばかり。他人のことを自意識過剰とディスる癖に、本当は自分こそがそうなんだよな。

Insight

人に有益な情報をもたらそうと思って始めたブログなのにも拘わらず (僕にしては非常に珍しい)、結局個人的なものに成り下がってしまった。

 

ここ一か月くらい、目の前のことばかりに頭が行って、物事を広い目で見れていない気がする。リラックスするということができてない。仕事でデータ解析でもすれば答えが出て、ドーパミンも出て気持ちが良い。これには良いこともあるけれど、何のかんの言って単なる依存症みたいなもんで、常にこの状態ではたぶん良い仕事はできない。

研究をどうまとめるかというようなことに頭が行っている。この研究内容はこの論文にまとめて、関係するけど少し異なる内容は別の論文にまとめるか、それとも一緒くたにするか。別々にすればインパクトが落ちるけど、今は投稿する雑誌が決められているし、そこには、この程度でいいんじゃないかとか。そんなこと考えていたら、自分はいったい何がしたいのかよく分からなくなってきた。単に「成果」を量産したいわけじゃなかったはずだ。

 

昔の知恵で、耳を澄ませて環境音に注目してみたら、なんとなく落ち着いた気持ちになってきた。

自分がどういう人間で、心の底では何を求めているんだろうかとか、分かっていれば簡単なのになあ。学生のころから息詰まるためにそんなことを思う。誰かが答えを与えてくれたらよいのに(でもきっと信じきれないだろうな)。インターネットを見ていると、そういう問いの答えを確信しているように見える人がいくらでもいて本当に驚く。そんなことも分からない僕がバカなのか。でも、そういえば、今のような状態になっていない時に、こういう名前の本を読んでいて、

"Insight: The Surprising Truth About How Others See Us, How We See Ourselves, and Why the Answers Matter More Than We Think"

興味がわかない無駄話が多いので半分くらいで投げ飛ばしてしまったけど、要は「人は自分自身を正しく見えていない」というお話で、確かにそういう効果は少なからずあるように思われる。逆に、他人のことはなんとなく類型できる気がしてくるが、それを本人に話してみたらどいう反応するだろう?

 

論文量産と割り切って、自分自身でも凄く面白いとは思わないものを世に出すことも大事ではあり、軽視されるべきことではない。もし小さなことでも、誰かがまとめないと、世の中から消えさってしまう。評価にも直結する。一方で、創造性というのかそういうのを発揮して、自分だけの視点で物事に筋を通すということはとても気持ちが良い。後者に越したことはない。効率は著しく落ちる。